GoogleEarthで遊んでみた [街並]
GoogleEarthを注意深く見ると 今は無くなってしまったものの痕跡を見ることができます。
それは昨日の記事のように無くなってしまった鉄道であったり 暗渠になってしまった川の流れだったりします。
私の記憶にある廃線は 国分寺駅から出発していた下河原線です。
実際には一度も乗ったことがないので 間違っている部分もあるとは思いますが
ざっと このような形で線路が敷設されていました。
下河原線は初め多摩川から川砂利を運ぶために1910年(明治43年)に作られたのですが その後東京競馬場への人の輸送、東芝府中工場への人員と物資の輸送と製品の搬出などにと様々な形で使われてきました。
そして武蔵野線ができて その役割を終え廃線になりました。
この辺りの歴史はwikipediaに詳しく書かれています。
実際に下河原線の痕跡をGoogleEarthで見てみます。
国分寺駅を出発した車両はしばらく中央線と並行して走り 元鉄道学園の北西角で左にカーブして 府中街道に沿って南下します。
青線で囲んだ所にその痕跡を見ることができます。
また
府中刑務所にも引込み線があったようです。
この下河原線については おがえもん廃線研究所の国鉄下河原線に写真入で詳しく解説されています。
今鉄道は人の輸送が主で貨物の輸送が従になっていますが この下河原線が川砂利輸送のために作られたことにも見て取れるように まず貨物の輸送のために作られたものが多いのです。
これは
武蔵境駅を出発し 中央線から南にはなれ 多摩川の是政に川砂利を取りに行っていた西武是政線です。
三鷹駅開業80周年でも書きましたが 1889年(明治22年)に中央線が新宿⇔立川で開業したときの駅が新宿、中野、境(武蔵境)、国分寺、立川だったことを考えると その当時いかに川砂利が重要であったことがわかります。
川砂利を鉄道で輸送することがそれほど重要でなくなっても 下河原線は武蔵野線に変身して また西武是政線はそのままの形で生き残っています。
もちろん今は通勤のためと言う重要な役割があるのですが 下河原線が行き着く先には東京競馬場、是政線が行き着く先には多摩川競艇場があることも大きな意味を持っているように思えます。
府中市の東西それぞれにある鉄道は同じように川砂利運搬に始まりギャンブルで生きながらえていて 私にはそのことが大変面白く思えました。
はなこさんが コメントで国土変遷アーカイブの写真を紹介してくれましたので載せます。
これは1947年9月8日に米軍によって撮影されたものです。
国分寺駅から今の日立中央研究所の南側をなめるように北上する西武線、府中街道手前で左にカーブし 府中街道の西側を南下する下河原線がよく分ります。
はなこさんありがとうございました。
それは昨日の記事のように無くなってしまった鉄道であったり 暗渠になってしまった川の流れだったりします。
私の記憶にある廃線は 国分寺駅から出発していた下河原線です。
実際には一度も乗ったことがないので 間違っている部分もあるとは思いますが
ざっと このような形で線路が敷設されていました。
下河原線は初め多摩川から川砂利を運ぶために1910年(明治43年)に作られたのですが その後東京競馬場への人の輸送、東芝府中工場への人員と物資の輸送と製品の搬出などにと様々な形で使われてきました。
そして武蔵野線ができて その役割を終え廃線になりました。
この辺りの歴史はwikipediaに詳しく書かれています。
実際に下河原線の痕跡をGoogleEarthで見てみます。
国分寺駅を出発した車両はしばらく中央線と並行して走り 元鉄道学園の北西角で左にカーブして 府中街道に沿って南下します。
青線で囲んだ所にその痕跡を見ることができます。
また
府中刑務所にも引込み線があったようです。
この下河原線については おがえもん廃線研究所の国鉄下河原線に写真入で詳しく解説されています。
今鉄道は人の輸送が主で貨物の輸送が従になっていますが この下河原線が川砂利輸送のために作られたことにも見て取れるように まず貨物の輸送のために作られたものが多いのです。
これは
武蔵境駅を出発し 中央線から南にはなれ 多摩川の是政に川砂利を取りに行っていた西武是政線です。
三鷹駅開業80周年でも書きましたが 1889年(明治22年)に中央線が新宿⇔立川で開業したときの駅が新宿、中野、境(武蔵境)、国分寺、立川だったことを考えると その当時いかに川砂利が重要であったことがわかります。
川砂利を鉄道で輸送することがそれほど重要でなくなっても 下河原線は武蔵野線に変身して また西武是政線はそのままの形で生き残っています。
もちろん今は通勤のためと言う重要な役割があるのですが 下河原線が行き着く先には東京競馬場、是政線が行き着く先には多摩川競艇場があることも大きな意味を持っているように思えます。
府中市の東西それぞれにある鉄道は同じように川砂利運搬に始まりギャンブルで生きながらえていて 私にはそのことが大変面白く思えました。
はなこさんが コメントで国土変遷アーカイブの写真を紹介してくれましたので載せます。
これは1947年9月8日に米軍によって撮影されたものです。
国分寺駅から今の日立中央研究所の南側をなめるように北上する西武線、府中街道手前で左にカーブし 府中街道の西側を南下する下河原線がよく分ります。
はなこさんありがとうございました。
おはようございます。
廃線後をたどるのは面白いですね。
盛土跡とか、何らかの痕跡が結構残っていますし。
東急玉川線も元々は多摩川の砂利運搬だったとか。
by hayama55 (2010-06-12 05:41)
意外と多摩地区にはギャンブル施設がありますが、
鉄道のお客さん誘致と関係があるのですね。
武蔵野線を使って、毎週あちらこちら出かける先輩もいて、
ついに府中本町にマンションを買ってしまいました。
by manamana (2010-06-12 06:03)
是政線は子供のころ多摩川に遊びに行くのに使いました^^;;
あの頃は赤い電車???まてよ!?その前は茶色だったような・・・・。
by ulyssenardin36000 (2010-06-12 06:16)
hayama55 さん
玉電も砂利、西武池袋線は石灰岩 八高線と横浜線は生糸 いろいろなものを運ぶために鉄道が敷かれたのですね。
by kurakichi (2010-06-12 17:45)
manamana さん
ギャンブルは景気が悪くなってもそれなりに人が集まりますが 遊園地は人が集まらず苦しい状況になってしまうようです。
遊園地専用に敷かれた鉄道が今苦しい状況にあるのではないかと思います。
by kurakichi (2010-06-12 17:48)
ulyssenardin36000 さん
是政線にも実は一回も乗ったことがありません。
今は武蔵境駅も高架になってJRから西武線への乗り換えは改札を通過しなければならなくなりましたが 確か昔はJR下りと西武線は一つのホームの両側にあったと記憶しています。
by kurakichi (2010-06-12 17:53)
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M449&photono=156
ご参考までに。
私も好きだけど、これやりだすと、目も腰も痛い。
by はなこ (2010-06-12 18:36)
はなこ さん
参考写真をお教えいただきありがとうございます。
さっそく使わせていただきます。
by kurakichi (2010-06-12 20:10)
今晩は。
テレビの空から見る番組、時折見ています。
ムシムシの1日でした。
by 夏炉冬扇 (2010-06-12 21:19)
夏炉冬扇 さん
空撮番組は面白いですね。
物事なんでも 時々俯瞰で眺める事が必要かと思います。
by kurakichi (2010-06-12 21:26)
はじめまして。がね~しゃと申します。
国分寺市に暮らしていてよく西国分寺~国分寺周辺を散歩するんですが、元鉄道学園付近の道路の広さはゆくゆくは大きなバス停ができるのかな~なんて思っていたんですが、昔線路だったのですね。
とても興味深く拝見させていただきました!
by がね~しゃ (2010-06-13 01:26)
がね~しゃ さん
ご訪問そしてコメントまでいただきありがとうございます。
はけの地に住んでもう50年以上になり はけにある坂について私の思い出を書いてみようと言うことでブログを始めました。
気が向いたときにでもまたお越しください。
by kurakichi (2010-06-13 06:43)