武蔵野競技場線の謎 [街並]
6月に開業80周年の三鷹駅についての記事について書きましたが そのとき知った武蔵野競技場線について何かもやもやと割り切れないものを感じていました。
なぜ当時の国鉄は1年ほどの営業でその後廃線にしてしまったのか そもそも競技場まで人を運ぶ目的はどこにあったのかなど どうもそれまで知りえた知識では納得がいかなかったのです。
先日久しぶりに
国分寺の名曲喫茶店でんえんに行ってみました。
真夏の暑い午後 涼みがてら本でも読むには
土蔵造りのこの喫茶店は 美人のお母さん店主は うちは冷房が効かなくって などとすまなそうに言うのですが 私にはちょうど良い室温なのです。
さてそのでんえんに置かれている本の中に
多摩のあゆみ と言う雑誌がありました。
私もこのときこの雑誌の存在を知ったのですが これは昭和50年(1975年)から続いている雑誌で多摩の郷土史資料として貴重なものだと思いました。
私が手にしたのは平成7年5月の第79号でした。
その中に
関島久雄氏の 中島飛行機の大きな工場と小さな鉄道、そしてその後 があり
時も忘れて面白く読んでしまいました。
そしてこの記述の中に私が疑問に思っていた武蔵野競技場線についての答えが書かれていました。
今の東京ヤクルトスワローズはかなり昔 金田正一投手がいたころは国鉄スワローズといっていたことを覚えていらっしゃる方も多いかと思います。
実は国鉄の音頭で作られたスワローズのフランチャイズ球場が武蔵野競技場だったのです。
国鉄は中島飛行機の跡地に野球場を作り三鷹からは以前の引込み線を使ってお客を運ぶのが腹積もりであったようですが いかんせんこのあたりは関東ローム層でできていていったん風が吹くと赤土が舞い上がり試合どころではなくなってしまったようです。
関島氏もこの球場での最初の試合スワローズ対ジャイアンツ戦を観に行ったとき その赤土にひどい目にあったことを書いています。
結局この球場で行われたのは7試合だけで国鉄の思惑は大いに外れてしまったと言うことなのです。
wikipediaの東京ヤクルトスワローズの国鉄・サンケイ時代と武蔵野グリーンパーク野球場にもその当時のことが書かれていますのでご興味のある方はクリックしてみてください。
なぜ当時の国鉄は1年ほどの営業でその後廃線にしてしまったのか そもそも競技場まで人を運ぶ目的はどこにあったのかなど どうもそれまで知りえた知識では納得がいかなかったのです。
先日久しぶりに
国分寺の名曲喫茶店でんえんに行ってみました。
真夏の暑い午後 涼みがてら本でも読むには
土蔵造りのこの喫茶店は 美人のお母さん店主は うちは冷房が効かなくって などとすまなそうに言うのですが 私にはちょうど良い室温なのです。
さてそのでんえんに置かれている本の中に
多摩のあゆみ と言う雑誌がありました。
私もこのときこの雑誌の存在を知ったのですが これは昭和50年(1975年)から続いている雑誌で多摩の郷土史資料として貴重なものだと思いました。
私が手にしたのは平成7年5月の第79号でした。
その中に
関島久雄氏の 中島飛行機の大きな工場と小さな鉄道、そしてその後 があり
時も忘れて面白く読んでしまいました。
そしてこの記述の中に私が疑問に思っていた武蔵野競技場線についての答えが書かれていました。
今の東京ヤクルトスワローズはかなり昔 金田正一投手がいたころは国鉄スワローズといっていたことを覚えていらっしゃる方も多いかと思います。
実は国鉄の音頭で作られたスワローズのフランチャイズ球場が武蔵野競技場だったのです。
国鉄は中島飛行機の跡地に野球場を作り三鷹からは以前の引込み線を使ってお客を運ぶのが腹積もりであったようですが いかんせんこのあたりは関東ローム層でできていていったん風が吹くと赤土が舞い上がり試合どころではなくなってしまったようです。
関島氏もこの球場での最初の試合スワローズ対ジャイアンツ戦を観に行ったとき その赤土にひどい目にあったことを書いています。
結局この球場で行われたのは7試合だけで国鉄の思惑は大いに外れてしまったと言うことなのです。
wikipediaの東京ヤクルトスワローズの国鉄・サンケイ時代と武蔵野グリーンパーク野球場にもその当時のことが書かれていますのでご興味のある方はクリックしてみてください。
もともと線路は通じていたので、
気軽に(?)廃止出来たのでしょうね。
by manamana (2010-08-25 06:36)
manamana さん
しっかりした野球場を造っていたら面白かったのですが 親方日の丸の国鉄でしたから覚悟がなかったのでしょうね。
by kurakichi (2010-08-25 08:25)
スワローズはサンケイアトムズとか言うチョイの間の時代も
ありましたね。
by muzik (2010-08-25 08:35)
muzik さん
そんな時代もありましたね。
ホームランでアトムが飛んだりして。
by kurakichi (2010-08-25 08:50)
中島飛行場の跡地は公園になり、その隣に、武蔵野市役所が建てられています。浅田次郎さんの本に、その廃線になった線路の事がでてきます。ただ、ごめんなさい、本のタイトルが出てこない・・
by tama (2010-08-25 10:18)
こんにちは。
国鉄スワローズ、懐かしいですね。
「多摩のあゆみ」はたましんの社会事業で、すばらしい冊子ですね。
手元にも何冊かありますが、資料としての価値が高いので、興味のある特集版は保存しています。私は月2回行く府中駅近くの第2庁舎6階「多摩交流センター」で時々戴いて帰りますが、定期購読でも3年間で1800円だったと思います。
by sig (2010-08-25 10:38)
この道は行ったことなかった。冷房がきいてないなら行ってみたい。
3年で1800円だったら、悪くない。やっぱりたましんの慈善事業みたいなものなんでしょうね。
by はなこ (2010-08-25 11:15)
tama さん
浅田次郎さんの本は読んだことがないのですが 武蔵野競技場線を話題にしたものがあるのですか。
by kurakichi (2010-08-25 14:03)
sig さん
たましんさんもいい仕事をしているなあと思いました。
by kurakichi (2010-08-25 14:05)
はなこ さん
でんえんのような喫茶店はもう他にはないでしょう。
一度いらしてみてはいかがでしょうか。
by kurakichi (2010-08-25 14:07)
武蔵野競技場って、元は野球場だったんですか!
かつての武蔵野競技場線(引込線)の跡地が堀合遊歩道ですね。
by akipon (2010-08-25 20:21)
今晩は。
貴重な資料がありましたね。
歴史発掘。
私も古代官道の「駅」を調べています。
by 夏炉冬扇 (2010-08-25 20:40)
akipon さん
堀合遊歩道は涼しくなってから歩いてみようかと思っています。
貴兄の記事にあった三鷹陸橋から西に少し行ったところですよね。
by kurakichi (2010-08-25 22:40)
夏炉冬扇 さん
地元のしっかりした企業がまとめた資料は本当に貴重だと思います。
貴兄の労作も貴重な郷土資料となることをお祈りしています。
by kurakichi (2010-08-25 22:44)
雰囲気のあるお店ですね。
クラシック音楽のレコードが
棚いっぱいに並んでいるのでしょうか。
by 人間科学者 (2010-08-25 22:58)
人間科学者 さん
このお店40年以上のキャリアがあるので古いレコードがたくさんあります。
最近はCDをかけていることの方が多いようですが、、、
by kurakichi (2010-08-25 23:05)
浄水場から武蔵野中央公園へ続く遊歩道を通っているときに、こんな狭い所を鉄道が通っていたのかなぁと疑問に思っていたのですが、小さい機関車だったんですね。
by aoken (2010-08-26 07:03)
aoken さん
昔の引込み線は狭かったみたいですね。
本に載っている写真の上の機関車は鉄道連隊で使用されていた97式軽貨車で現在は朝霞の自衛隊に保存されているそうです。
下の蒸気機関車は以前狭山のユネスコ村で展示されてい同じく鉄道連隊で使用されていたK2型蒸気機関車で軌道幅が600mmから1067mmに変更されたものだそうです。
by kurakichi (2010-08-26 09:05)
素敵なお店が残っていますね。
by 空兵 (2010-08-26 21:17)
空兵 さん
時代を経て味のある店構えになっています。
by kurakichi (2010-08-26 22:19)
赤土のホコリ主犯説は、多摩人としては悲しいな。
初めっからローム層に決まってるもんね。
単純すぎない?
中学時代は陸上部の手伝いでよく走りに行きました。
by みっち (2010-08-27 09:04)
みっち さん
何せ主体は国鉄でしたから単純すぎても納得しました。
by kurakichi (2010-08-27 09:35)