小金井村分水を歩いてみるⅢ [散歩の途中で]
小金井村分水が流れていたであろうと思われる道をたどって行くと
玉川上水の手前で水路が復活して その少し先に
水門がありました。
この
水門は
明治三年(1870年)にそれまで玉川上水から取水していたものを砂川分水(深大寺用水)から取水するようにした時に造られたものだそうです。
となるとそれまではここも樋を使って用水を立体交差していたのかもしれません。
写真でまっすぐ奥へ進んでいるのが小金井村分水で 左に進んでいるのが砂川分水です。
この砂川分水の少し下流には以前 水車があって大正年間までつき臼12柄、万力碓二台が動いていたそうです。
玉川上水手前の右側には ここにも水道用の井戸
貫井北6号水源がありました。
小金井(黄金井)という地名が表わしているように ここは地下水に恵まれている土地なのです。
玉川上水脇の道をよく通っていて
この道だけが他の道と違って鋭角に交わっているのが不思議に思っていましたが 小金井村分水の取水部分であったことを知って なるほどとやっと理解できました。
玉川上水は 三鷹から井の頭公園方面に少し行った上水脇にある太宰治の文学碑によれば昔は
玉川上水は深くゆるゆると流れて、
とあり 水面が岸際まである上水の脇にたたずむ太宰が写っている写真が刻まれています。
しかし今の上水の水は
川の底をちょろちょろと流れるほどしかありません。
砂川分水や小金井村分水などを復活させる為には羽村での取水量を増やし 岸際まで水量を増やさなければならないでしょう。
子供の事故や太宰のように自ら飛び込むようなことを防ぐ手立てを考えなければなりませんが 昔と同じぐらいに水量を増やし 水車を復活させてほしいと思いました。
復活させた水車では粉を挽くのではなく発電機を回して地域の電力として活用することも出来るのではないかと いろいろ問題はあるでしょうが 脱原発の一案として考えられるのではないかと思っています。
私の家の近くを流れていた貫井分水のハケの崖上には水車があったと聞いています。
玉川上水からの分水はいずれハケの崖を下ります。
分水はいくつかありますので それを復活させてハケの崖下に発電機を設置すればある程度効率的に電力を得られるのではないかと素人考えで思っています。
玉川上水の手前で水路が復活して その少し先に
水門がありました。
この
水門は
明治三年(1870年)にそれまで玉川上水から取水していたものを砂川分水(深大寺用水)から取水するようにした時に造られたものだそうです。
となるとそれまではここも樋を使って用水を立体交差していたのかもしれません。
写真でまっすぐ奥へ進んでいるのが小金井村分水で 左に進んでいるのが砂川分水です。
この砂川分水の少し下流には以前 水車があって大正年間までつき臼12柄、万力碓二台が動いていたそうです。
玉川上水手前の右側には ここにも水道用の井戸
貫井北6号水源がありました。
小金井(黄金井)という地名が表わしているように ここは地下水に恵まれている土地なのです。
玉川上水脇の道をよく通っていて
この道だけが他の道と違って鋭角に交わっているのが不思議に思っていましたが 小金井村分水の取水部分であったことを知って なるほどとやっと理解できました。
玉川上水は 三鷹から井の頭公園方面に少し行った上水脇にある太宰治の文学碑によれば昔は
玉川上水は深くゆるゆると流れて、
とあり 水面が岸際まである上水の脇にたたずむ太宰が写っている写真が刻まれています。
しかし今の上水の水は
川の底をちょろちょろと流れるほどしかありません。
砂川分水や小金井村分水などを復活させる為には羽村での取水量を増やし 岸際まで水量を増やさなければならないでしょう。
子供の事故や太宰のように自ら飛び込むようなことを防ぐ手立てを考えなければなりませんが 昔と同じぐらいに水量を増やし 水車を復活させてほしいと思いました。
復活させた水車では粉を挽くのではなく発電機を回して地域の電力として活用することも出来るのではないかと いろいろ問題はあるでしょうが 脱原発の一案として考えられるのではないかと思っています。
私の家の近くを流れていた貫井分水のハケの崖上には水車があったと聞いています。
玉川上水からの分水はいずれハケの崖を下ります。
分水はいくつかありますので それを復活させてハケの崖下に発電機を設置すればある程度効率的に電力を得られるのではないかと素人考えで思っています。
昔の日本は「水」が幹線だったのですね。水の流れで村が出来、町ができた。そういう意味で日本も豊かな国だったのですね。しかし、道が主流になり、それが今では高速道路。もはや、人間は従で、荷物が主になっていますね。最近のkurakichiさんの一連の記事を読ませてもらってそんな事を思ってしまいました。ありがとうございます。
by kjisland (2011-04-27 07:58)
kjisland さん
水が無いところでは作物が作れないどころか人は生きてゆけません。
江戸の人口が多くなって江戸に近い武蔵野で作物を作る欲求から新田開発が始まりました。
江戸に上水を運ぶ為の玉川上水が出来、その水を分けてもらって新田が開発されました。
今そのような歴史の痕跡に興味を持っているのです。
by kurakichi (2011-04-27 09:58)
水路の探索お疲れ様です♪
玉川上水の両脇は、桜等植えられた自然を残す道となって居るところも多いのですが、
三鷹~井の頭までのように、水路事態は手入れのしてない暗く生い茂る草木で覆われて、
水の持つ気持良さを阻害したままで、好きになれない所です!
sigさんアップの三沢川のようになってくれたら良いな~と思います。
by urara☆ (2011-04-27 13:00)
分水路がほとんど空、というのは寂しいですね。
by ナツパパ (2011-04-27 20:02)
川には、やはり滔々とした流れが欲しいものですね。
by そらへい (2011-04-27 21:32)
urara☆ さん
玉川上水は上水(飲み水)という性格上 人が親しむ流れになることは難しいでしょうね。
私はあれはあれで意味あるものと思っています。
by kurakichi (2011-04-28 00:42)
ナツパパ さん
過去の遺物としてもこういう形で残してよいものかと私も思っています。
もっと積極的に生かすことを考えるべきだと思っています。
by kurakichi (2011-04-28 00:44)
そらへい さん
水が流れていない川なんて、、、
どうにかしたいです。
by kurakichi (2011-04-28 00:47)