姿見の池の伝承 [はけの道]
姿見の池には
橋というか木道が掛けられていて
それを渡ると その先は小高い崖になっていて
JR中央線がその上を走っています。
池の脇に設置されている説明板の図は左上が南になりますが
図の上部に描かれた 日陰山 が一昨日の記事の姿見の池緑地で、下部右側の小川が昨日の記事の恋ヶ窪用水です。
この俯瞰図が書かれている説明板には
この姿見の池にまつわる伝承が書かれていました。
かいつまんで説明すると
ここにはずいぶん昔 鎌倉街道(ほぼ今の府中街道に沿っている)が主要街道であった頃 この池の近くに宿場町があって そこにいた遊女たちが朝な夕なに自分の姿をこの池に映して見ていたことがこの池の名前の由来なのだそうです。
鎌倉時代から時代が下って江戸時代になると 青梅街道や甲州街道といった江戸を基点とする街道に活動が移ってここの宿場町は衰退していき 今はまったくその面影はありません。
私の友人のB氏は関西から美大受験のために初めて上京したとき この池の近くにあった旅館に泊まったと話していました。
その旅館も今はもうありませんがひょっとしたら その旅館はここが宿場町であったことの最後の名残であったのかもしれません。
さらにここには 一葉松(ひとはまつ)の伝承についても書かれていました。
それは 鎌倉時代 遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者の畠山重忠(はたけやましげただ)の恋仲を邪魔した男が太夫に重忠は平家に討たれて死んだと嘘の話をし、それを信じ嘆き悲しんだ太夫は この池に身を投げて死んだというお話です。
意外な話がこの地に残っていました。
また江戸名所図会にも
道興准后(みちおきじゅごう)の歌と共に恋ヶ窪の風景が登場しているのだそうです。
橋というか木道が掛けられていて
それを渡ると その先は小高い崖になっていて
JR中央線がその上を走っています。
池の脇に設置されている説明板の図は左上が南になりますが
図の上部に描かれた 日陰山 が一昨日の記事の姿見の池緑地で、下部右側の小川が昨日の記事の恋ヶ窪用水です。
この俯瞰図が書かれている説明板には
この姿見の池にまつわる伝承が書かれていました。
かいつまんで説明すると
ここにはずいぶん昔 鎌倉街道(ほぼ今の府中街道に沿っている)が主要街道であった頃 この池の近くに宿場町があって そこにいた遊女たちが朝な夕なに自分の姿をこの池に映して見ていたことがこの池の名前の由来なのだそうです。
鎌倉時代から時代が下って江戸時代になると 青梅街道や甲州街道といった江戸を基点とする街道に活動が移ってここの宿場町は衰退していき 今はまったくその面影はありません。
私の友人のB氏は関西から美大受験のために初めて上京したとき この池の近くにあった旅館に泊まったと話していました。
その旅館も今はもうありませんがひょっとしたら その旅館はここが宿場町であったことの最後の名残であったのかもしれません。
さらにここには 一葉松(ひとはまつ)の伝承についても書かれていました。
それは 鎌倉時代 遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者の畠山重忠(はたけやましげただ)の恋仲を邪魔した男が太夫に重忠は平家に討たれて死んだと嘘の話をし、それを信じ嘆き悲しんだ太夫は この池に身を投げて死んだというお話です。
意外な話がこの地に残っていました。
また江戸名所図会にも
道興准后(みちおきじゅごう)の歌と共に恋ヶ窪の風景が登場しているのだそうです。
何も考えずにお散歩したら、そんな悲しいお話が
あるなんて思いもしない、のどかな風景ですよね~。
by tomotomo (2011-10-13 06:37)
鎌倉時代に遊女というのと、遊女が自分の姿をその池に写していた、、、という所がぐっときました。
by kjisland (2011-10-13 13:26)
tomotomo さん
イヤー地元にこんな話があったとは全然知りませんでした。
by kurakichi (2011-10-14 01:23)
kjisland さん
遠い昔にこの場所に宿場があって遊女がいたとは、、、
by kurakichi (2011-10-14 01:25)