両国を歩いてみるⅠ [街並]
ちゃんこ川崎の場所を確認して少し時間があったので両国の町を歩いてみることにしました。
回向院には以前行ったことがあるので今回はそこから東に足を進めます。
回向院のすぐ隣は両国シティコアビルになっていますがそこには
高札のの形をした説明板が立っています。
その説明版には
今に続く大相撲は回向院の境内で行われた興行が起源で、明治42年(1909年)にここにドーム型の国技館が造られ 昭和58年(1983年)に解体されるまでの歴史が書かれています。
さてここから京葉道路を東に進み次の辻を右に曲がると
観光スポットが示されている案内板がありました。
街歩きにはとても便利な標識です。
これによるとここから東に進むと、吉良上野介の屋敷跡、芥川龍之介の文学碑があることがわかります。
まずはまっすぐ進んで
吉良上野介の屋敷跡にきました。
ここは
広大だった吉良邸が小さく分割され人手に渡った土地の一画を地元の有志が買い取って東京都に寄付し、墨田区に管理が移管されたものなのです。
海鼠壁に囲われた敷地に入ると 上の説明板にあるように
討ち入りという凶悪事件が起こったこの土地を鎮めるために造られた松坂稲荷神社、
吉良上野介の坐像、
その上野介の首を洗ったといわれる井戸などが置かれていました。
さて次は芥川龍之介の文学碑を見に行きます。
回向院には以前行ったことがあるので今回はそこから東に足を進めます。
回向院のすぐ隣は両国シティコアビルになっていますがそこには
高札のの形をした説明板が立っています。
その説明版には
今に続く大相撲は回向院の境内で行われた興行が起源で、明治42年(1909年)にここにドーム型の国技館が造られ 昭和58年(1983年)に解体されるまでの歴史が書かれています。
さてここから京葉道路を東に進み次の辻を右に曲がると
観光スポットが示されている案内板がありました。
街歩きにはとても便利な標識です。
これによるとここから東に進むと、吉良上野介の屋敷跡、芥川龍之介の文学碑があることがわかります。
まずはまっすぐ進んで
吉良上野介の屋敷跡にきました。
ここは
広大だった吉良邸が小さく分割され人手に渡った土地の一画を地元の有志が買い取って東京都に寄付し、墨田区に管理が移管されたものなのです。
海鼠壁に囲われた敷地に入ると 上の説明板にあるように
討ち入りという凶悪事件が起こったこの土地を鎮めるために造られた松坂稲荷神社、
吉良上野介の坐像、
その上野介の首を洗ったといわれる井戸などが置かれていました。
さて次は芥川龍之介の文学碑を見に行きます。
随分変わりましたね。
by ねじまき鳥 (2012-09-29 00:23)
ねじまき鳥 さん
私は以前の様子は知らないのですが とても綺麗な印象でした。
by kurakichi (2012-09-29 00:33)
ここの住民は吉良上野介さんは
悪い人ではなかったと言いますね。
史実はどうなんでしょう?
やはり作られた話なんでしょうか!
by yoko-minato (2012-09-29 18:51)
殿中で抜刀すると、理由の如何を問わず“切腹”というのが武士の慣わしでしたので、それを承知(だったかどうかは不明ですが)で吉良上野介に切りかかった浅野長矩は自業自得といえるのであり、それを逆恨みされた吉良上野介が“一番の被害者”といえるのではないでしょうか?!
私の勤める工場がある相良町(現:牧之原市)は、賄賂政治で名高い田沼意次のお膝元で、確か愛知県の吉良町と姉妹都市を結んでいたと思いました^^;)
by 風来鶏 (2012-09-29 20:59)
yoko-minato さん
歴史は多面的ですから評価が別れることは良くありますね。
見方によってそれが正しいといわれたり、違った角度から正しくないといわれたりしますね。
by kurakichi (2012-09-30 05:17)
風来鶏 さん
確かにそういった見方もできると思います。
しかしそれでは忠臣蔵は成立しなくなってしまいます。
忠臣蔵はフィクションですが今に至るまで人気があります。
それは、そこには感情的な部分で共感できる何かの真実が含まれているからだと思います。
by kurakichi (2012-09-30 05:35)