恋ヶ窪用水にであった [はけの道]
姿見の池緑地から坂を下りて姿見の池の脇に出て さらに少し進むと
綺麗な水が流れる小川がありました。
この小川は
右手に流れて姿見の池に注いでいます。
この小川がどこから流れているか気になったので左手に道を進むと
姿見の池緑地の入り口があった府中街道から坂を下ったところにある道に行き当たりました。
そこにはこの小川が
恋ヶ窪用水が復元されたものであることが書かれていました。
この説明の脇に描かれていた地図には
恋ヶ窪用水だけでなく 以前水路跡を探った貫井分水についてもその流路が描かれていました。
さて恋ヶ窪用水の上流はここから
府中街道に沿って北に向かい 玉川上水の久衛門橋までつながっていたのですが、写真のように今は埋め立てられて道になってしまっていて ここから流れ出ている水はおそらく地下水をくみ上げられて流されているものだと思われます。
ここの辻角に
お地蔵さんがありました。
彫られた文字を見ると
元禄十六年と書かれていました。
承応2年(1653年)に玉川上水ができ、その4年後の明暦3年(1657年)に恋ヶ窪用水がつくられ、それから46年経った元禄16年(1703年)にお地蔵さんが作られたので このお地蔵さんはここにもう308年も立いらっしゃるのですね。
綺麗な水が流れる小川がありました。
この小川は
右手に流れて姿見の池に注いでいます。
この小川がどこから流れているか気になったので左手に道を進むと
姿見の池緑地の入り口があった府中街道から坂を下ったところにある道に行き当たりました。
そこにはこの小川が
恋ヶ窪用水が復元されたものであることが書かれていました。
この説明の脇に描かれていた地図には
恋ヶ窪用水だけでなく 以前水路跡を探った貫井分水についてもその流路が描かれていました。
さて恋ヶ窪用水の上流はここから
府中街道に沿って北に向かい 玉川上水の久衛門橋までつながっていたのですが、写真のように今は埋め立てられて道になってしまっていて ここから流れ出ている水はおそらく地下水をくみ上げられて流されているものだと思われます。
ここの辻角に
お地蔵さんがありました。
彫られた文字を見ると
元禄十六年と書かれていました。
承応2年(1653年)に玉川上水ができ、その4年後の明暦3年(1657年)に恋ヶ窪用水がつくられ、それから46年経った元禄16年(1703年)にお地蔵さんが作られたので このお地蔵さんはここにもう308年も立いらっしゃるのですね。
玉川上水の久右衛門橋のすぐ近くの農園で
野菜を育てています。そこからこの小川の水は
繋がっているのですね。
by vanilla_beans (2011-10-12 09:51)
1703年のお地蔵様。すごい歴史。すごい時間、そこにいてくれたんですねえ!!!!!
by kjisland (2011-10-12 11:00)
この用水で新田や畑の開発も進んだのでしょうね。
玉川上水の、この地域に果たした役割の大きさを感じました。
それでも、畑がなくなると、用水は埋め立てられてしまうのだなあ。
by ナツパパ (2011-10-12 17:38)
お地蔵さんがあって、水車が回っている風景を見たいものですね。
by sig (2011-10-12 19:42)
vanilla_beans さん
その農園きっと江戸時代から野菜を作り続けてきたところなのでしょうね。
by kurakichi (2011-10-13 01:20)
kjisland さん
ずいぶん長い間ここに立っていらっしゃるようです。
by kurakichi (2011-10-13 01:21)
ナツパパ さん
玉川上水の直接の目的は江戸の人たちのための飲料水確保だったのですが 武蔵野の開発にも大きく貢献し それが江戸の人たちの食料の供給にもつながっているのです。
by kurakichi (2011-10-13 01:25)
sig さん
色々と問題はあるのですが 私は玉川上水の取水量を増やし このような用水を整備復活させて 水車を回してほしいと思っています。
水車は粉を挽くのでなく 発電機をつなげ付近の街灯の電源にしたらと思っているのですが、、、
by kurakichi (2011-10-13 01:28)