分倍、分梅、分配? [史跡・遺跡・遺構]
高倉塚古墳を見てから八雲神社の天王塚古墳を見に行くには 陣街道に出て右に行くのですが、陣街道を左に行くと坂を下りきる直前に
梅花山光明院天王寺があります。
ここの本堂は建て替えられてしまっていますが山門は古いまま残っています。
山門脇には
元禄十年と彫られている庚申塔があります。
このお寺の開基ははっきりしないのですが鎌倉時代後期ではないかと言われています。
この光明院に因んで名づけられた
光明院坂を下ると多摩川までの平地が広がります。
東側からは
立川崖線下の道が来ていて、鎌倉街道(陣街道)はそれと交差して
関戸橋に向かって伸びています。
光明院坂の説明板にも書かれていますがここから多摩川にかけての一帯で元弘3年(1333年)に新田義貞と北条泰家が戦いました。
この時の戦いの碑は200mほどこの先にある新田川緑道にあります。
交差点の対角には小さな緑地があってそこには
分梅と書かれた説明板あってこの地名 ぶばい について書かれています。
古くは分配や分陪の字が当てられていて 近世になってから分梅の字が多くなったとのこと。
飛鳥時代から10世紀ごろまでは律令制の時代で土地は私有が許されず口分田として国から与えられるものでした。
この辺りは多摩川の氾濫もあったりして思うように収穫が少なかったのでその口分田を倍にしたことが 分陪 の名の起こりではないかという説も書かれていました。
梅花山光明院天王寺があります。
ここの本堂は建て替えられてしまっていますが山門は古いまま残っています。
山門脇には
元禄十年と彫られている庚申塔があります。
このお寺の開基ははっきりしないのですが鎌倉時代後期ではないかと言われています。
この光明院に因んで名づけられた
光明院坂を下ると多摩川までの平地が広がります。
東側からは
立川崖線下の道が来ていて、鎌倉街道(陣街道)はそれと交差して
関戸橋に向かって伸びています。
光明院坂の説明板にも書かれていますがここから多摩川にかけての一帯で元弘3年(1333年)に新田義貞と北条泰家が戦いました。
この時の戦いの碑は200mほどこの先にある新田川緑道にあります。
交差点の対角には小さな緑地があってそこには
分梅と書かれた説明板あってこの地名 ぶばい について書かれています。
古くは分配や分陪の字が当てられていて 近世になってから分梅の字が多くなったとのこと。
飛鳥時代から10世紀ごろまでは律令制の時代で土地は私有が許されず口分田として国から与えられるものでした。
この辺りは多摩川の氾濫もあったりして思うように収穫が少なかったのでその口分田を倍にしたことが 分陪 の名の起こりではないかという説も書かれていました。
そう言えば私が遺跡資料のデータ化作業をした時にお世話になった
先生の都庁職員時代の発掘動画(TV番組)がありました。(youtube)
日野市多摩川付近の落川遺跡です。
よろしかったらご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=d4Gi2XttygM
https://www.youtube.com/watch?v=8rb4jgwGv28
by くーぺ (2014-11-06 00:50)
くーぺ さん
発掘調査の動画 専門家の話で詳しいことが知れてとても面白く見ました。
ご紹介ありがとうございました。
by kurakichi (2014-11-06 03:10)