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猿若町を歩いてみた  [街並]

5月7日の浅草散歩では浅草神社、披官稲荷神社を訪れた後 なんとなく足は浅草寺裏から今は浅草6丁目と呼ばれている猿若町に向かっていました。
浅草6丁目は言問橋西交差点から始まりますが
そこから言問橋を見ると
 
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真正面に明日オープンの東京スカイツリーが見えます。
まあこのあたりで東を向けばいやでも見えてしまうのですが、、、

ここから吉野通りを北に少し行くと
 
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宮本卯之助商店があります。
浅草神社の三つの宮神輿はこの宮本卯之助商店が造っています
御神輿のほかここでは伝統芸能の太鼓も作っているのですが それはここ猿若町が歌舞伎の町であったことに多く由っています。

天保13年(1842年)に歌舞伎の中村、市村、薩摩、結城座がこの地に移り、それまで聖天町と呼ばれていた地名も中村座の前身 猿若座を興した猿若勘三郎にちなんで猿若町と呼ぶようになりました
明治以降はここにあった歌舞伎小屋はさまざまな理由で他の地へ移ってしまいました
そういった歴史の中 十八代目中村勘三郎はこの地での小屋掛けにこだわりを持っていて ちょうどこの日もここから目と鼻の先の隅田公園で平成中村座を小屋掛けしていました
ここ猿若町には今は歌舞伎小屋はありませんが これまで歌舞伎を支えてきた大道具、小道具を生業にしている家 またはそこからそれらの技術を他の分野に発展させてきたお店などがあります。
それは上に紹介した宮本卯之助商店であったり
なかなか素敵なロゴマークの
 
120621_003.jpg

Ozaki さん
兎の耳にも見えますが これは下駄や草履の鼻緒をデザインしたものです。

120621_004.jpg 

このお店はバッグやさんのようです。
猿若町の町並みも少しずつ新しいものに変わってきていますが まだまだ
 
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このような建物も残っています。
屋根下の装飾が
 
120621_006.jpg

控えめですが素敵です。

さて今まで浅草は隅田川の土手を除きまったく平板な土地だと思っていたのですが 今回猿若町を歩いてみてその道をよく見ると
 
120621_007.jpg

微妙な傾斜あることに気が付きました。
それも中央の道に向かってゆるく下ってその道を過ぎるとゆるく上って 次の道に行き着くと今度はまた下るといった形になっています。
ここの町割りはおそらく江戸時代からそう大きく変わってはいないと思われます。
下水や雨水を流す板で覆われたどぶがおそらく道に沿って作られていたに違いなく、効率よく水を排出する為に土地自体にゆるい傾斜をつけたのだと思います。
歓楽街と町人長屋の違いはありますが その排水の為のどぶは基本的には以前見に行った東京都水道歴史館の展示

110616_008.jpg

のようなものだったはずです。
今回はこの微妙な土地の傾斜にこの町の歴史の古さを感じました。

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コメント 4

yoko-minato

タモリ散歩でもやっていましたね。
排水のための坂道を・・・
聖天町と読んでいたのは近くに
浅草聖天様があるからですよね。
by yoko-minato (2012-05-21 05:50) 

kurakichi

yoko-minato さん

そう、だいぶ前のブラタモリでもやっていましたね。
大道具屋さんのお蔵に入って長い刀なんか抜いたりして それが壊れたりして笑ってしまいました。

by kurakichi (2012-05-21 09:44) 

opas10

あの土蔵、一瞬江戸期かと思いましたが、屋根下の意匠が洋風なので、たぶん大正~昭和初期と見ました。とはいえ、やはり100年くらい経っている年代モノ、町の歴史を感じました。
by opas10 (2012-05-27 16:40) 

kurakichi

opas10 さん

ご意見お待ちしておりました。
やはり100年ぐらいは経っているのですね。
街歩きをしているとついついこういう建物を探してしまいます。
また記事にアップしたときはぜひご意見をお願いします。

by kurakichi (2012-05-27 17:36) 

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