上野のお山をブラブラ歩くⅢ [神社仏閣教会]
維新前は上野のお山のほとんどが境内だった寛永寺は戊辰戦争後は子院であった大慈院を根本中堂として その境内は東京国立博物館の北側の小さな範囲になってしまいました。
しかし以前の寛永寺境内にあったものが旧寛永寺五重塔の他にもまだいくつかあります。
その一つが
大仏パゴダです。
小山の石段を登ると 以前大仏様が座していらっしゃった場所には
パゴダがあってその中には薬師三尊が祀られています。
そして大仏様はこのパゴダの左脇に
お顔だけになっていらっしゃいました。
寛永8年(1631年)に造られた大仏様は幾度も災難にあって再建されましたが 明治になってお堂が取り除かれたお姿の彩色写真が
お顔の脇に飾られています。
大仏様が遭われた数々の災難はwikipediaに詳しく書かれていますが、明治以降のものを抜粋すると 明治8年(1875年)に上野恩賜公園の整備でお堂が取り除かれ 大仏様は露座になりました。
その後 大正12年(1923年)の関東大震災のときに頭部が落ち、
昭和15年(1940年)にはばらばらに保管されていた大仏様のお顔以外のものが軍事物資として供出され、そして昭和47年(1972年)に寛永寺に保管されていたお顔がレリーフとして安置され今のお姿になりました。
今この大仏様はもうこれ以上落ちることがないとの験担ぎから多くの受験生が訪れるそうです。
しかし以前の寛永寺境内にあったものが旧寛永寺五重塔の他にもまだいくつかあります。
その一つが
大仏パゴダです。
小山の石段を登ると 以前大仏様が座していらっしゃった場所には
パゴダがあってその中には薬師三尊が祀られています。
そして大仏様はこのパゴダの左脇に
お顔だけになっていらっしゃいました。
寛永8年(1631年)に造られた大仏様は幾度も災難にあって再建されましたが 明治になってお堂が取り除かれたお姿の彩色写真が
お顔の脇に飾られています。
大仏様が遭われた数々の災難はwikipediaに詳しく書かれていますが、明治以降のものを抜粋すると 明治8年(1875年)に上野恩賜公園の整備でお堂が取り除かれ 大仏様は露座になりました。
その後 大正12年(1923年)の関東大震災のときに頭部が落ち、
昭和15年(1940年)にはばらばらに保管されていた大仏様のお顔以外のものが軍事物資として供出され、そして昭和47年(1972年)に寛永寺に保管されていたお顔がレリーフとして安置され今のお姿になりました。
今この大仏様はもうこれ以上落ちることがないとの験担ぎから多くの受験生が訪れるそうです。
“もうこれ以上落ちることがない”とは、面白い験担ぎですね^^
JR東海道線金谷駅の近くにある、旧東海道「石畳」には“すべらず地蔵”というのがあり、そろそろ受験生で賑わうのではないでしょうか!?
by 風来鶏 (2012-11-14 09:33)
普段何気なく通り過ぎているところですが、
kurakichiさんのお散歩は深いですね。
身体を軍事供出されてお顔だけになった大仏様。
お参りしたいです。
by palette (2012-11-14 10:48)
風来鶏 さん
すべらず地蔵 検索してみました。
玉石の参道と六角形のお堂が素敵ですね。
by kurakichi (2012-11-15 01:09)
palette さん
行き当たりばったりの散歩ですが 時々面白いものに出会います。
by kurakichi (2012-11-15 01:11)