横浜ディープゾーンⅩ [街並]
伊勢佐木町商店街のメインストリートの奥のほうにビルにはさまれて
子育安産地蔵尊が祀られていました。
この子育安産地蔵菩薩の由来は
明治37年(1904年)に創建された横浜善光寺別院の境内に15年後の大正8年(1919年)に安置したお地蔵さまが その後関東大震災と横浜大空襲の被害にあって この地に安置されたのだそうです。
これまでこの地を歩いてみて初めて出会ったお地蔵さんです。
それもわりと新しい。
神社もお寺も見当たりません。
なぜだろう?と疑問を持ってさらに進むと 昨日の記事の電気屋さんがあってその少し先の
かにの愛知屋さんで商店街は終わります。
この先には児童公園がある緑地帯があり
これはどう見ても川、それも人工的な川の運河が埋め立てられたものに見えます。
そしてこの先は道が少し細くなるのですが そこには
お三の宮通り歴史の掲示板があって この辺りは昔入海で江戸時代に埋め立てられたと書かれていました。
以前ブラタモリの横浜編で今の中華街辺りは横浜開港のときに埋め立てによって造られたことを知りましたが この辺りも埋め立てによって造られた土地であったことはこのとき初めて知りました。
ここから東側にある伊勢佐木町などの通りが碁盤の目のようになっていることも合点が行きます。
東京で言えば大手町、銀座、浅草、両国、本所など埋め立てて作られた町の道は碁盤の目です。
このときの理解はそこまでで帰ってから調べてみると南吉田町内会のHPにこの埋め立てによる新田開発について詳しく書かれていました。
ご興味のある方はぜひ
http://www.minamiyoshida.jp/modules/pico/index.php/content0007.html
をご覧ください。
新田として造られたこの土地も時代を経るとその一部は町になり、横浜開港の時にはさらに大きく変化しました。
それはwikipediaによるとオランダ公使からの依頼で関内に港﨑遊郭(みよざきゆうかく)が作られたのが始まりのようです。
その場所は横浜スタジアムがある横浜公園なのだそうです。
その後遊郭は豚屋火事と呼ばれる大火で消失し場所を吉田新田北一ツ目に移し、そこでも火災にあって高島町に移り、そこでも火災にあって吉田新田南三ツ目(今の真金町と永楽町)に移ったのだそうです。
ちなみに落語家の桂歌丸さんの生家は真金町の遊郭でした。
この辺りの風俗店があっけらかんと点在している理由はこのように遊郭があちらこちらと移っていったことにあるのかもしれません。
さて緑地帯に沿った道を北に進むと大岡川の
道慶橋に行き着きました。
一つ下流の橋の右岸には前回行った喫茶店のTAKEYAさんがあって 左岸には京浜急行の黄金町駅があります。
足は前回ひどい雨で歩くのを断念した黄金町を目指します。
子育安産地蔵尊が祀られていました。
この子育安産地蔵菩薩の由来は
明治37年(1904年)に創建された横浜善光寺別院の境内に15年後の大正8年(1919年)に安置したお地蔵さまが その後関東大震災と横浜大空襲の被害にあって この地に安置されたのだそうです。
これまでこの地を歩いてみて初めて出会ったお地蔵さんです。
それもわりと新しい。
神社もお寺も見当たりません。
なぜだろう?と疑問を持ってさらに進むと 昨日の記事の電気屋さんがあってその少し先の
かにの愛知屋さんで商店街は終わります。
この先には児童公園がある緑地帯があり
これはどう見ても川、それも人工的な川の運河が埋め立てられたものに見えます。
そしてこの先は道が少し細くなるのですが そこには
お三の宮通り歴史の掲示板があって この辺りは昔入海で江戸時代に埋め立てられたと書かれていました。
以前ブラタモリの横浜編で今の中華街辺りは横浜開港のときに埋め立てによって造られたことを知りましたが この辺りも埋め立てによって造られた土地であったことはこのとき初めて知りました。
ここから東側にある伊勢佐木町などの通りが碁盤の目のようになっていることも合点が行きます。
東京で言えば大手町、銀座、浅草、両国、本所など埋め立てて作られた町の道は碁盤の目です。
このときの理解はそこまでで帰ってから調べてみると南吉田町内会のHPにこの埋め立てによる新田開発について詳しく書かれていました。
ご興味のある方はぜひ
http://www.minamiyoshida.jp/modules/pico/index.php/content0007.html
をご覧ください。
新田として造られたこの土地も時代を経るとその一部は町になり、横浜開港の時にはさらに大きく変化しました。
それはwikipediaによるとオランダ公使からの依頼で関内に港﨑遊郭(みよざきゆうかく)が作られたのが始まりのようです。
その場所は横浜スタジアムがある横浜公園なのだそうです。
その後遊郭は豚屋火事と呼ばれる大火で消失し場所を吉田新田北一ツ目に移し、そこでも火災にあって高島町に移り、そこでも火災にあって吉田新田南三ツ目(今の真金町と永楽町)に移ったのだそうです。
ちなみに落語家の桂歌丸さんの生家は真金町の遊郭でした。
この辺りの風俗店があっけらかんと点在している理由はこのように遊郭があちらこちらと移っていったことにあるのかもしれません。
さて緑地帯に沿った道を北に進むと大岡川の
道慶橋に行き着きました。
一つ下流の橋の右岸には前回行った喫茶店のTAKEYAさんがあって 左岸には京浜急行の黄金町駅があります。
足は前回ひどい雨で歩くのを断念した黄金町を目指します。
「横浜」の地名の由来も、湾を塞ぐようなかたちで、(象の鼻のような)横に長い浜が広がったいたのでしたよね^^
by 風来鶏 (2013-06-13 09:57)
風来鶏 さん
横浜の名の由来はまさにそうなのですが その湾が奥まで深く広がっていてちょうど釣鐘のような形だったことは想像外でした。
南吉田町内会のHPの説明で初めて知りました。
http://www.minamiyoshida.jp/modules/pico/index.php/content0007.html
by kurakichi (2013-06-13 13:25)
スマートフォン、タブレット対応アプリケーション(プログラム)を開発しましたので是非、是非アクセスし評価をお願いします。
今後も趣味の旅行映像をベースにしたアプリを1本/週で登録する予定ですので、宜しくアクセスをお願いします。
http://takemovies.blog.so-net.ne.jp/
by takemovies (2013-06-13 16:22)
takemovies さん
そのような活動をなさっていたのですか。
申し訳ないのですが 私、スマートフォンもタブレットも持っていませんのであいにく評価することができません。
悪しからず。
by kurakichi (2013-06-13 17:49)