国分寺市にある鎌倉街道 [古道]
さて1300年前に使われていた東山道武蔵路は大和朝廷の力が衰えることでその必要性が薄れやがて使われなくなり その後は地方豪族の行き来のための道が登場します。
その道は為政者の権力を示すものではなく もっと現実的な街道で地形に沿ったものになります。
その代表が鎌倉街道と名付けられている道で 関東に多く存在しています。
たとえばそれは裏原宿から青山に向かう途中にあってそれは金王神社の脇を通っています。
また阿佐ヶ谷のパールセンターの道も大宮八幡宮から先は鎌倉街道と呼ばれています。
国分寺市の鎌倉街道は東山道武蔵路のすぐ西側にあって
それは東京人8月号にも紹介されていました。
私は以前この道を雨の日に
歩いています。
東山道武蔵路の遺構を訪ねた日はそこには寄らず鎌倉街道にまつわる逸話の一葉松がある東福寺に行きました。
一葉松の伝承については以前姿見の池を訪れた時に知りましたがそれは
鎌倉時代 遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者の畠山重忠(はたけやましげただ)の恋仲を邪魔した男が太夫に重忠は平家に討たれて死んだと嘘の話をし、それを信じ嘆き悲しんだ太夫は この池に身を投げて死んだというお話です。
今では想像できませんが恋ヶ窪あたりの鎌倉街道には妓楼が何軒もあって栄えていたのです。
池に身を投げた夙妻太夫のお墓があるのが東福寺でそれは恋ヶ窪用水が姿見の池に向かうように曲がる辻にある
お地蔵さんの西側にあります。
本堂に上る階段下に
傾城墓とその由来が書かれた石碑があります。
傾城(けいせい)とは絶世の美人という意味から変性し遊女を意味する言葉です。
この墓の隣に
三代目の一葉松が植えられていました。
その道は為政者の権力を示すものではなく もっと現実的な街道で地形に沿ったものになります。
その代表が鎌倉街道と名付けられている道で 関東に多く存在しています。
たとえばそれは裏原宿から青山に向かう途中にあってそれは金王神社の脇を通っています。
また阿佐ヶ谷のパールセンターの道も大宮八幡宮から先は鎌倉街道と呼ばれています。
国分寺市の鎌倉街道は東山道武蔵路のすぐ西側にあって
それは東京人8月号にも紹介されていました。
私は以前この道を雨の日に
歩いています。
東山道武蔵路の遺構を訪ねた日はそこには寄らず鎌倉街道にまつわる逸話の一葉松がある東福寺に行きました。
一葉松の伝承については以前姿見の池を訪れた時に知りましたがそれは
鎌倉時代 遊女の夙妻太夫(あさづまたゆう)と坂東武者の畠山重忠(はたけやましげただ)の恋仲を邪魔した男が太夫に重忠は平家に討たれて死んだと嘘の話をし、それを信じ嘆き悲しんだ太夫は この池に身を投げて死んだというお話です。
今では想像できませんが恋ヶ窪あたりの鎌倉街道には妓楼が何軒もあって栄えていたのです。
池に身を投げた夙妻太夫のお墓があるのが東福寺でそれは恋ヶ窪用水が姿見の池に向かうように曲がる辻にある
お地蔵さんの西側にあります。
本堂に上る階段下に
傾城墓とその由来が書かれた石碑があります。
傾城(けいせい)とは絶世の美人という意味から変性し遊女を意味する言葉です。
この墓の隣に
三代目の一葉松が植えられていました。
鎌倉街道って随分繋がっているんですねー。
井の頭通りの事を書かれていたときも驚きましたけど・・。
by Far-East (2013-08-02 20:59)
Far-East さん
ハイ、鎌倉街道はたくさんあってどれがどこにつながるのかははっきりわかりません。
by kurakichi (2013-08-03 22:17)
傾城の意味は、絶世の美女といういみだけかと思っていたら、別の意味もあったんですね!堀北真希ちゃんを「傾城」と表現しないでいてヨカッタ(笑)。
by opas10 (2013-08-12 11:10)
opas10 さん
もともとの意味は絶世の美女だったのでしょうが それが変化したのでしょうね。
by kurakichi (2013-08-12 13:29)