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玄冶店があった場所は  [街並]

玄冶店があった場所には
 
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石碑と中央区教育委員会が設置した説明板があって そこには
京都の医師 岡本玄冶(1587~1645)は上洛していた家光が江戸の帰る際に侍医として江戸に移り この地に千五百坪の土地を拝領し屋敷を構えたこと そして家光に重用され白銀二百枚を賜ったことなどが書かれています。
店(たな)とは商業的施設を表す言葉で玄冶店と呼ばれたのにはその一部は貸家にもしていたことで その貸家を舞台に歌舞伎の『与話情浮名横櫛』が作られたということなのです。

玄冶店の石碑から右の小路を入ると
 
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道の右側の角に
 
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橘稲荷神社がありました。
この神社は
 
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岡本玄冶が江戸城内にあったものを賜ったもので、岡本家の本姓が橘だったので橘稲荷神社と呼ばれるようになったのだそうです。

芳賀先生の

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江戸東京地形の謎に載っている元禄6年(1859年)の古地図にも
 
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玄冶店の文字があって 確かにここに岡本玄冶の屋敷があったのは理解できるのですが少し疑問があります。
それは 上の地図では二辺が埋め立てられて道になっていますが地図の浜町堀とそれに直角にあるある竈堀(へっついぼり)に並行して二本の堀があって 江戸の初期にはここが堀で囲われて周囲から隔絶された遊郭の吉原があった場所なのです。
明暦の大火(1657年)でここにあった遊郭吉原は浅草の北隣(今の千束)に移転させられ そちらが新吉原 ここが元吉原と呼ばれるようになりました。
元吉原は元和3年(1617年)から明暦3年(1657年)までここにあって 岡本玄冶は寛永21年(1645年)に没しているので二つの年代が重なっています。
ということは岡本玄冶が拝領したのは元吉原だったのか?
御殿医の屋敷が遊郭にある?
といった疑問が頭に浮かびます。
まあ、そういったことは歴史学者の先生に任せて少し歩いてみました。
遊郭が移った後もこの辺りは芳町という名で花街として栄え、川上貞奴もここの出なのだそうです
いまここには久松姉さんのほか15名ほどの芸妓がいるのですが 芸妓を呼べる料亭は 玄冶店 濱田屋 一軒だけで それは橘稲荷神社より少し行ったところに
 
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あります。
もう少しこの辺りで昔の遊郭の匂いを探してみようと思ったのですが時間がせまってきたので地下鉄水天宮駅まで戻ることにしました。
橘稲荷神社まで戻ると
 
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和服姿のお姉さんたちが歩いていました。
この街には和服がよく似合います。
この通りにはまだまだ
 
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このような建物も残っています。
さて
 
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人形町交差点に出ました。
ここから来た時とは反対の歩道を通って地下鉄水天宮駅に向かいます。

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コメント 6

usitora

古い江戸の町並みが今なお残っているのですね。
後世まで残したい風景です。
by usitora (2013-12-23 17:44) 

cocoa051

何かで読んだことがありましたが、浜町堀というと明治座とも近いですね。ヒマなとき、行ってみます。
by cocoa051 (2013-12-23 18:15) 

COLE

しばらく訪問サボっていました。下町巡り面白いですねぇ。遡って見てしまいました。
by COLE (2013-12-23 20:45) 

kurakichi

usitora さん

ハイ、ずっと残っていてもらいたい街並みです。

by kurakichi (2013-12-24 01:03) 

kurakichi

cocoa51 さん

今回は時間の関係で浜町堀跡には行くことができませんでしたが ぜひ行ってみたい場所です。

by kurakichi (2013-12-24 01:05) 

kurakichi

COLE さん

うれしいコメントありがとうございます。

by kurakichi (2013-12-24 01:07) 

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