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元数寄屋橋阪急のビルはどうなった?  [建造物]

平野 充展を観終って晴海通りに出ると気になるのは
 
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ソニービルの道を挟んで向かいにある元数寄屋橋阪急があった銀座TSビルの建て替えです。

昨年10月段階ではまだ上物の姿がありませんでした
 
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ほぼ外装は出来上がっていました。
このビルの皇居側には
 
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SANPOJIN さんが夜の写真をアップしている岡本太郎氏の時計塔がある数寄屋橋公園があってその隣には掘割を埋めた後に造られた首都高があります。
その首都高の下をくぐって建築中の件のビルを見ると
 
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ソニー側とは違って単純な側面になっています。
何やらイモムシ そう風の谷のナウシカのオームのように見えます。
ちなみに設計は日建設計のようです

もう一つ気になる3月に店を閉めたニュートーキョービル
 
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ようやく解体が始まったようです。

ところでここの辺りは千代田区有楽町といいますが
 
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その名のおこりについてこの説明板に出ていました。
 
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きわめて断定的に 徳川幕府から織田有楽斎がこの辺りに屋敷を拝領しそれがもとでこの辺りを有楽町と言うようになったと書かれていますが この説は今かなり怪しくなっています。
Wikipediaによれば 織田有楽斎は、生涯のほとんどを上方で過ごしており、江戸に屋敷を拝領したという記録も、江戸に来たという記録も見当たらない。 江戸開府期には、この辺りまで海が入り込んでいた(日比谷入江)ことから、水辺の地名の「浦原」「浦ヶ原」から転じたのではないか、という説がある。 町名としての「有楽町」は明治初めに誕生したが、その時、現在の東京駅あたりに「永楽町」が誕生していることから、地名研究家の櫻井澄夫は、有楽、永楽は明らかにペアの地名であって、明治初期の新政府(東京)による町名確定の際、新造されたいわゆる瑞祥地名の一種であるとしている。 と書かれています。
 
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これは江戸末の安政期の古地図ですが当然有楽斎の屋敷もなければ 地名にすら有楽の記載はありません。
ただ数寄屋橋御門の名はあって 有楽斎=茶人=数寄者茶室=数寄屋からこの数寄屋橋御門の名に有楽斎を連想することは何とかできますが上記Wikipediaからすると千代田区の断定表現はいかがなものかと思います。
 
これは確かなことですが
 
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有楽町駅ができて今年が105年目に当たります。

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コメント 2

sig

こんばんは。
つい最近行ってきました。有楽町駅前のビルの地下、新しいニュー・トーキョーでお昼を食べました。
by sig (2015-06-24 01:29) 

kurakichi

sig さん

そうですか。
地下では外が見られないのでちょっと残念ですね。

by kurakichi (2015-06-25 00:57) 

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